つんどく


 昔、何かの軽い読み物で「つんどくのススメ」とか何とかいう文章に出会い、「あ、いいんだ、つんどくで」と達観してしまい、以来、つんどくを実践している。その文章が誰のものだったか、どんな内容だったか、まったく思い出せないのだが、買った本を読みきってから次の本を購入する、という律儀な習慣が自分から消滅したことは確かだ。


 今、まさにつんどくピーク。


 藤原新也村上春樹町田康辛酸なめ子澁澤龍彦山口昌男大江健三郎ガルシア・マルケスみうらじゅんらの、人によっては複数の著作の他、ゴルゴ13(複数)、新書(複数)、その他もろもろ、ほどよく積んじゃった。


 大体、たいして読書家ではない。急に「わー読むぞ」と思うと狂ったように読むタイプだ。しかし、狂ったように読むにも暇な時間が必要で、なかなかそれがなかったりする。おかげでつんどく状態の本の標高がどんどんと高くなっていくのだ。


 また、恐ろしいことは、つんどく状態の本が、まぁ、そのように流動的なエリアから、本棚の中に所定の場所を見つけて丸く収まってしまうことである。つまり、読まずに終わる場合である。そうした本も随分とある。


 ふと思いつく著者で、ドストエフスキートルストイサルトルボードレール、サンドラールゲーテ、ヘッセ(誕生日一緒なのだ)、ニーチェマルクス山口昌男、その他もろもろ。


 ということから、現在つんどく本に加わっている文化人類学者の山口昌男の著作が、読まずに終わった本に加わる可能性が非常に高く感じられるのである。いや、反対に一冊読んで火がつき、狂ったように読む可能性だってないとは言えないだろう。が、これは随分と失礼なことを書いている気がする。一応、読まずに終わっている山口昌男の本より、読み切った山口昌男の本の方が多いのだ。いや、ますます失礼なことを書いている気がする。話題を変えよう。


 いやぁー、ロシア、ふらんす、独逸に弱いねー。特に、重厚な文体(日本語訳だけど)には弱いのかもしれない。誰とは言わないけれど。上中下3冊本にも弱いかもしれない。誰とは言わないけれど。多分、一生読まないで終わる蔵書、あるだろう。


 積んでいるうちに人の興味や関心、場合によっては人生観、生き方そのものまで変わってしまうかもしれないのだからどうしようもない。つんどくでいーのだ、という達観は、要するに人生流れるがまま、という実践でもあるのだ。


 「わー、この本読も。買っちゃお」
 「わー、後で読もう。積んどこ」
 「わー、他の本読も」
 「わー、この本、買ってから10年経っちゃった」