ジュリー


 先日お呼ばれした結婚式でのこと、新婦が往年のスーパースター、ジュリーこと沢田研二ファンであるとの旨が、主賓からの祝辞で読み上げられ、場内は一瞬「ん?」という反応を見せた後、「おぉっ」という華やいだムードに包まれた。
 その際、居合わせた集団の心の動きを以下のように察する。女性形にしてみる。意味はない。


 ジュリー?あのジュリーよね?ちょっと忘れていたわ。もう21世紀だし。でも悪くはないわ。ジュリーだもの!


 ちょっと馬鹿っぽくなっちまった。ともあれ、意外ながらイケている選択なわけだろう。
 その響きとともに輝いた昭和の郷愁が蘇る、そういう世代が大量に集結していたせいかもしれぬ。


 私の幼年時代は歌謡曲と共にあり、私は歌謡曲を愛した。なのに、どうもいつ頃からか私の中で歌謡曲が輝きを失っていった。


 私の心変わりか?
 成長につれ、もっと「俺の生き様はよぅ」みたいな歌(誰?)へと趣向がシフトしていったせいもあっただろう。更にその後、そんなことほざいていたなど、まるで無かったかのように忘れ、洋楽へ突っ走っちゃったせいもある。「あーい、うぉうなぁ、びーうぃーいいー、あーなーちーすと」なんつってね。「日本の歌なんて、だっせー、だっせー、聴けねー」と思っていた期間は長かった。


 時代のせい?
 プロフェッショナルな作詞家や作曲家が書き上げた歌謡曲よりも、言ってはなんだが素人が作った、荒削りだが若者の心情を代弁するかのような曲のほうが、いつからか主流になったのだ。その潮目が成長期と重なったか。


 しかし沢田研二、ジュリーである。
 その響きの甘美なことは、彼のキャリアが歌謡曲の不滅の名作によって彩られていることと無関係ではない。
 「勝手にしやがれ」(阿久悠作詞、大野克夫作曲)は、おそらくジャン=リュック・ゴダールの同名の映画のタイトルから取られたのだろうが、まるで歌われている情景がありありと目に浮かぶような作りがなされている。「勝手にしやがれ」と呟かずにはいられないだろう男の仕様もなさは、舞台は異なれど、フランスでも日本でも違いはない。こういう曲は今、ない。この詞は書けねー。


 他にも時代を彩った愛すべき名曲・佳曲数知れず。


 そんな彼の人気も、いつごろからか翳り、いまではテレビなどでもあまりお目にかかることが少なくなった。


 「勝手にしやがれ」の頃が彼の人気の頂点だとすると、彼の人気の、どちらかというと後退局面でリリースされた曲にも気に入っている曲がある。


 ジャングルみたいな雰囲気に溢れかえった「晴れのちBLUE BOY」(銀色夏生作詞、大沢誉志幸作曲)は、トーキング・ヘッズなんかがやっても違和感が無いようなニューウェイヴに聞こえて好きだった。千夜一夜物語を意味する「アリフ・ライラ・ウイ・ライラ」(沢田研二作詞・作曲)も、歌謡曲の雰囲気を残しながら、ベースがうねり、リバーブの効いたドラムスがビートを刻む音作りが気に入っていた。彼のイメージはデヴィッド・ボウイと重なるところが多いのだけれど(奇抜な衣装メイクとかね)、この曲などボウイのアルバムに入っていてもおかしくない感じだった。


 歌謡曲は既に歴史遺産なのかもしれないが、されどジュリー。その名が発せられ、一瞬、空気の色が変わったように見えた場に出くわしたのだ。


※後日、新郎新婦夫妻と「北沢豪、サッカー人生を熱く語る!」とかなんとかいう催しに共に出かける機会があり、話題を向けると、「私は別にジュリーのファンなんかではなーい」と強弁していた。主賓の暴走だったのかも知れぬ。えーい、勝手にしやがれ