タバコとわたし


 日本国内における紙巻タバコの禁煙を決意・実行して5年くらいになる。


 私はこういう決意に際して


「全面禁煙」
「全面撤退」
「全面降伏」
「一億玉砕」
「徹底的にやります」


 といった、爽やかで健全でよどみのない態度をとることが嫌いだ。可能な限りのレトリックを駆使してどうにか逃げ道を設けておく煮え切らなさ、グダグダ感がいいのだ。それでいいのだ。


 が、しかーし、その間、海外に行く機会もあったが吸っていないし、日本国内においても紙巻以外の、葉巻、パイプ、噛みタバコなども吸っていないので、実質的に全面禁煙を行なっている状態だ。
 どーです。何だかんだいってもこの爽やかで健全でよどみのなさ。


 あー、タバコ吸いてぇ。


 タバコをやめた事で何か良くなったことは取り立ててない。今のところ思い当たらない。
 かといって、悪くなったということもこれといってない。確かにない。
 一体、私にとってタバコとは何なのか。


 長い目で見ると肺癌などのリスクは軽減しているのだろう。それは良いことだ。きっと。
 「ジタンヌを吸うのは緩慢な自殺のためだ」とか何とかセルジュ・ゲンズブールはうそぶいたそうだが。


 ミャンマーの首都ヤンゴンの雑貨屋でのこと。
私「俺は軽くて安いタバコが好きなのです。ミャンマー産のそういうタバコありますか?」
雑貨屋のおばはん「新聞丸めて吸ってな」


 いずれはパイプを、と企ててみる。
 パイプなんつーものでタバコ吸っているのはだいたい親父だな。20歳くらいのうぶでナイーヴなヤングが吸ってたら、それは奇矯というものだ。
 私のイメージだと白髪で口髭を生やしててアーガイルのチョッキ着てて、毎日決まった時間に喫茶店にやってきて、珈琲頼んで、新聞或いは単行本に眼を通しつつプカプカやる感じだ。あ、そして磨くのだ。パイプを。柔らかい布でね。ツヤを出すのだよワトソンくん。
 んー、俺はね、なりがもうちょっと労働者的と申しましょうか、或いはパンク的と申しましょうか、時にはアラビア的なのでパイプは奇矯だろうな。サ店側から見ると常連として好ましくなかろう。


 水パイプ、という手がある。
 この素晴らしい西アジア北アフリカの習俗を私はトルコで試したことがあるが、頭がクラクラした。水がフィルターの役目をしてくれるので健康だよ、と教えてもらったのだが、そもそも葉がストロング過ぎた。煙を吸いこむために力強く吸い口から息を吸いこんだならば、ぶくぶくと、水の中を通過した煙が、肺一杯に充満して酩酊気分になった。吸い方に慣れないとダメだ。こりゃ。


 結局、私には紙巻なのだ。
 そして日本国内では吸えんのだな。グダグダした誓いがあって。