ジャケ買いレコード評、韓国編(5)


 今回は強力な武器があります。
『コスモス朝和辞典』 白水社
 ふっふ。ハングル文字恐るに足らず。これでタイトルはバッチリわかるぞ。格闘。




「ノレルルチャヌンサラムトゥル2」(多分)
 歌を捜す人たち2(多分)1989年
 歌い人知れず。


 最後に残った謎めいたジャケット。色褪せた小学校の集合写真と思しき画から何人かの人影が白塗りされている。怖ぇー。これはクラスか、学年か、100人以上いるぞ。うち白塗り13人。


<予想>
 も、こんな風に白塗りされちゃっているのには、当たり前だよ訳がある。
 仮に白塗りされた人たちが他界しちゃっているとしよう。それならむしろその人たちの生前の写真を載せて置いてあげたいじゃあないか。それが人情ってもんだよ。
 仮に白塗りされた人たちが北に拉致されたのだとしよう。ますますその人たちの写真を載せてあげたいじゃあないか。それが抗議の意思表示ってもんだよ。


 ということは、上のような他界・失跡というシチュエーションが背景にあるならば、白塗りされた人々がこちら側に残っている人たちで、あちら側に行ってしまった写っている人たちのために制作したと考えるべきであろう。うわぁ、そう考えると全滅に近い。そこから漂う音は祈りのような音であろう。


 いやいや、やはり白塗りの人々こそがあちら側に行っちゃっているのだ、と考えると、人ひとりのIDを抹殺するには非常に暴力的な、国家的な力学が作用しないと。


 例えば、白塗りの人々は反体制的ゆえ思想・政治的に抹殺された。
 例えば、白塗りの人々は小学生に見えてその実、敵国のエージェントだった。
 例えば、政変などが起こって旧政権側だった白塗りの人々は一族もろとも抹殺された。


 実に音楽の根底にある表現の自由をきっぱり否定するようなシチュエーションだね。背筋が寒いよ。そこから漂う音はオーウェルの『1984年』のような、ソヴィエトや北朝鮮の、体制を賛美する音楽のような、そういう音なんだろうね。


 どちらだろうか。怖ぇー。


<結果>
 ん?なんか、ポップス的なフォーク、そう、これは懐かしの昭和ニュー・ミュージック風味だ。小椋 佳のような感じだ。歌は男性の熱唱。と、2曲目は女性の熱唱だ。複数のシンガーをフューチャーしたアルバムだな。でもって、合唱あり、歌声喫茶風あり、歌い上げあり、と粛々と進行していく。
 そして終わる。


 わからん。白塗りの意味が。歌を捜す人たち2の意味が。雰囲気的に抑圧的な体制を賛美するようには聴こえない(大体、制作年代がそういう時代じゃないだろう、韓国)が、祈り・弔いのようにも聴こえん。
 日本のニュー・ミュージック系の特徴はステレオ・タイプ化されたそれまでの歌謡曲に、もっと複雑な心情やシチュエーションを持ち込んだ点にもあったと思うのだが、こんな複雑なシチュエーションを理解するには言葉がわからないとムリなのだ、ということがよくわかったのだ。


 韓国ソウルの中古レコード屋で、ジャケット画で選んで購入したレコード紹介もこれで終了だ。そもそもこの5枚で韓国音楽シーンを語れるなどとは露ほどにも思っていなかったのだが、一方、逆にね、反対にね、これほどまでに韓国音楽シーンを語りようにも語れないであろう盤をチョイスしていた自分にもいささか呆れました。