CHARLOTTE FOR EVER

Charlotte For Ever 公開時パンフ



1986年フランス映画
セルジュ・ゲンズブール監督・脚本・音楽
シャルロット・ゲンズブール主演


 80年代の暮れ方、たしか渋谷のパルコ・スペース・パート3で見たような記憶がある。日本での公開はこちらのほうが「なまいき」より早かったのではないかな。どっちだったっけな。


 アル中でニコ中で高校生の娘の同級生に手を出すようなダメ親父(セルジュ)と、そんな親父が溺愛する娘(シャルロット)の物語。実の父娘の共演であるわけだが、セルジュらしく、作品というカンヴァスの上で現実と物語が混ぜこぜになっているかのようだ。


 シャルロットといえば、不貞腐れたような表情や、時々みせるはにかんだ笑顔や、ボソボソと喋る話し方など、印象的だった。かわいいだけじゃなくて、彼女にしかない個性がスクリーンから溢れ出していた。


 おっさんなんてみんなロリコンだぜ、と、フランス映画を見ていると訳もなく思う。手の届かないものへの憧れが胸を焦がし、妄想が虚像を神格化させる。その情熱を表現するのに、自分自身の知性と経験のあらん限りを駆使して言葉にしようとする意志は立派だ。文学であり芸術。哲学であり知の体系である。その全身全霊の情熱が小娘をロリータとして崇高なほど光り輝かせるのだろう。


 日本でロリコンのおっさんの社会的認知度が低いのは(あちらでも高いかは知らないけれどさ)、そうした戦略の欠如にもよるのではないかな。
 おっさんにあって若造にないもの、それは知性と経験です。それをもっと高く評価する社会環境が必要かと。まぁ、結局のところロリコン親父は別にロリータから尊敬されたいわけじゃないのだろうが、少しは慰みになるだろうか。そのくらいで満足しておけ、というような。世間知みたいで嫌な感じだけれど、セルジュ・ゲンズブールのような破滅型の人生を選ぶ勇気がなければほどほどに、というところだろう。何をやっても「まぁ、仕方ないね、あの人なら」と何となく許されてしまうその域に達するためには、基本的にドロップアウトで、なおかつ天使のような心性を持たねばなるまい。バカボンのパパのような。


 生身の小娘を光り輝かせる情熱と知性が不足すればロリータ素材は小便臭い小娘のまま、単なる原石素材だろうし、生身から逃避すれば描かれた虚構の世界だ。