王の男
2006年韓国映画
太鼓(プク)、銅鑼(チン)、小金(ケンガリ)、杖鼓(チャンゴ)。
朝鮮半島の打楽器アンサンブルに使われる基本楽器である。これらの打楽器の激しい乱打とともに映画は始まる。
学生だった頃、私はこれらの激しい打撃音の洪水の中に実際に身をおく機会があったし、それら打楽器アンサンブルの文化史的な背景について、ほんのサワリだけ齧ったことがあった。
朝鮮半島では歴史的に、王を頂点に、官僚・武官、農民、下層民などと連なる身分制度が敷かれてきた。そのヒエラルヒーの最下層の更に下、アウトカーストの賎民として旅回りの芸人がいたという。
旅回りの芸人にも種類がある。
寺党(サダン)と称される組織は、男と女一対のペアが複数集合した組織で、女がちょっとした芸や、春を売って稼ぎ(確かそれが主業だったような)、男はほぼなーんにもしないろくでなしだったと思う。まぁ、荷物を持ったり峠で女を背負うくらいのことはしてあげて欲しい。
男寺党(ナムサダン)は、打楽器アンサンブルや、仮面劇、人形劇に綱渡りなどの演目をこなす、民俗的なサーカス団のような旅回りの一座で、常人には真似の出来ないプロフェッショナルな技を誇る。その成員は男だけであるが、確か新入りは女役からスタートし、集団の中では男色によって絆を結んでいたらしい。また、演じた集落で請われれば男娼ともなったという。
ほかにも数種あったと思ったが。
映画は男寺党のメンバーと思しき二人の芸人と王とのストーリーだ。打楽器アンサンブル、仮面劇、綱渡りなどの妙技をエンターテイメント的に楽しむこともできる。
映画の中で芸人役の役者は芸人のことを「クワンデ(広大)」と称していた。私は広大は男寺党などと違って旅回りでない芸人だと思っていたのだが、芸人の総称として使われるのだろうか。
まぁ、とにかく、ヒエラルヒーの頂点と最下層とが接触し、大いなる摩擦が生じるわけだ。芸人にはパトロンが必要だが、パトロンのために演じれば芸が腐る。特に旅回りは、民衆の側に立ち権力を茶化して路銀を稼ぐ商売であり、カースト外であるがゆえにこそ権力を茶化すことが許される。
映画の中で芸人は魂を吐き出す。
「俺に失うものはない」
そう、失うべきなーんの身分もないが自由がある。故に、阿呆の王に従うことなく、なおかつ阿呆王を笑わせ、自らの自由のために渾身の芸を演じてみせるのだ。それが芸人の矜持ってもんだ。
あー、また映画見て号泣しちゃった。