方言の話だだ


 私の場合、小学校、中学校、高校と、長野県東部の一地方の中で過ごしていても、そこに通う子達が住まうエリアは上級の学校に進学するたびにだんだんと広くなっていった。それにより自分の世界も広がっていく。同じ町の中でも地区が違えば文化が異なることも感じたし、そんな友達ができれば立ち回り先も物理的に拡大していく。


 小学校に入ったとき、担任の教師が喋る言葉がしばらくわからなかった。


「おいは兄弟いるか」


「兄弟いるか」は無論わかる。兄弟がいるのかどうか尋ねているのだな。だが「おい」って何だ?呼びかけか?


 おい=二人称単数。君、お前
 おいと、おいだれ=二人称複数。君たち、お前達


 それまで育った家庭や幼稚園では使われない言葉だった。


 中学に入ると今までの自分の世界の外側からも生徒がやってくる。田舎の町でも比較的都市部で育ったので農村部から来る同級生は少し言葉が違って感じられた。荒々しく方言も多く含まれていたと思う。でも、彼らは野外での遊びに長けていたし、俺には少し眩しく感じられた。仲良くしているうちに言葉も随分感化されたと思う。


 高校に進むともう、別の町から通ってくる人たちと付き合うのだから、いろいろな言葉が飛び交うことになる。


「へー、そうだだ?」


 ちょっと可愛いニコニコした女の子だった。上げ口調の疑問文で「へー、そうなの?」と、問いかけ、または相槌を打っているのだ。


「そうだだって言うのですか?」
「あー、これダダ語なの。つい使っちゃうのよね。あはは。」


 ダダ語、そんな言語は日本になーい。私の育った町よりもやや南の地域で使われる語尾だ。しかし、感染ってしまった。そうだだ。そうだだだ。そうだだだだよ。いくつでも「だ」を積み足して強調することができるところがダダ語の魅力だだ。その子のこと、ちょっと好きだったけれど、向こうはこっちのことをなーんとも思っていなかった。あぁ、君にダダ語の全てを教えて欲しかった。


 自分の育った地方を離れ大学に進むと、自分の言葉が人に伝わらないという体験もする。


「ほー、とんでけ」
「花に水くれて」
「まえでにあるよ」


 これらはほとんど通じなかった。意味は順に「ほら、走っていきなさい」「花に水を与えなさい」「前方にあります」だ。


 私は今も普通に方言を喋る。別に方言に誇らしさなど感じないし、自分の方言を好きでも嫌いでもない。好きだけど嫌い、嫌いだけど好き、というのが近い気がする。白黒つけ難い。


 国を愛せというのなら前提として郷土を愛さねばなるまい。方言も含まれるはずだ。国を愛せというスローガンと国語の浄化運動がセットで展開されるとしたら、そこにトータリズムの香りを感じないわけにはいかないだろう。要注意。


 そんなもん、白黒つけられんだだだ。