気のいい虫くんと暮す


 蜘蛛を飼っている。などと書くとまるで蜘蛛好きの蜘蛛男か雲助のようだ。いいえ。仕事場のデスクの上を、先週から一匹の蜘蛛が徘徊しており、どうやらここに居ついてしまったらしい。


 全長1.5センチくらいかな。白っぽく、背中に一本、薄いこげ茶色のタテ縞がある。当たり前のように足は八本あるね。


 別に可愛がっているわけでも愛でているわけでもない。殺生の戒めに従っているわけでも、死後の世界に備えて功徳をプールしているわけでもまーったくない。私に対して取り立てて敵対的だとも思えないし、お互い自由にやろうぜという紳士協定である。まぁ、人とムシはおともだちなのである。


 随分と昔のことだが、タイの東北部を旅行していた。メコン川のほとり、川の向こうはラオス、という町で、ボサーっと、川べりの木作りの掘っ立て小屋のようなカフェで、ラオス側の道路を走るオートバイや、国境を渡るボートや、ついでにウエイトレスの尻なんかを眺めて一日を過ごした。今は立派な橋が架けられたが当時はなかった。


 宿もリバーサイドだ。鬱とした南国の茂みの中にバンガローのような小屋があり、小屋から数歩行けばメコンの川土手で、下にはコーヒー牛乳のような色をしたメコン川が流れていた。


 こういう環境だと、ヤモリとかトカゲとか大蛙とか大蛇とか虫とか、とっても出てきそうだよねー。


 ある朝、まどろみから目を覚ます。脳は未だ半眠状態にある。着替えよう。どこにいようと私の睡眠スタイルはパジャマ派だからね。ベッドの脇の椅子の上にリュックサックを置いていた。リュックサックに目を落とす。


 お・や?


 やけにふさふさした、丸まった、黒と黄色で全長10センチ程のミニ毛蟹のようなものがリュックの上にいる。なーんだ、すぐに何かわかったよ。あはは。よく土産屋で売っているタランチュラの玩具みたいなもんだろ。冗談よせよな。


 しかし、脳は半眠から脱しかかっていた。冗談よせよな・・・でも、誰が。これは、よもや、丸まってなお全長10センチ程の、ふさふさした、ホンモノの、スパイダー。


 俺とヤツの間に緊張が走った。その瞬間、


 シュッ!!


 うあぁああ!!


 ヤツは動いた。この温帯日本列島ではんなり暮す人々は、人の指ほども太さのある8本足が全力疾走したときの強力な運動能力を知るまい。間違いなくマッハ1は出ておったな。ありゃ。マッハ目撃。声出ちゃったよ。リュックを一瞬にして駆け下りると、もうどこへ消えたのやら。あとはただ、朝の宿屋でジタバタとジルバを踊るばかりなりけり。


 虫よ。馬鹿の人間を驚かせないでくれ。お互い、危害を加えあわず、暮らそう。