模倣とパクリ


 なんか、重そうなことを書こうとしている気配がタイトルから漂ってきそうだが、そんなつもりありません。


 模倣とパクリ(剽窃)とは似ているようで異なりそうだ。模倣は、多分、何かターゲットとする作品を真似てみることで、それに接近しようとする手段なのだろう。これは、多分、ある部分までは許されているのだと思う。一方、パクリというのは、ある作品を部分的に、或いはまるごと、しかもかなり原形通りに自分の作品の中に取り込んでしまうことだろう。これは、著作権のある作品に対して無断で行なうと、その侵害になる場合がある。著作権の消滅した作品に対してであっても出典を明記しないのはルール違反と考えられるのではないかな。とはいえ、模倣であるかパクリであるかオリジナルであるか、その線引きは難しく曖昧なものだと思う。


 自分が思いつくメロディの一節とかって、間違いなく、既にこの人類の歴史に刻まれたものなのだろうな、と思う。別に斬新さを感じるものでもないし、きっと、同じように思いついた誰かさんが大勢いるだろう。そもそも、人生のいつか、どこかで聴いたメロディの、いつ・どこで・誰が、を忘れて、メロディだけを思い出しているのかもしれないし。自分ではシロと感じていても、誰かさんにはグレー〜クロと感じられるかもしれない。


 更に気がかりなのは、ドラムのパターンのようなもので、その基本的なところは、間違いなく自分が考え出したものではないと、はっきり言い切れてしまう。例えば、四分の四拍子で一小節の中にキックを一拍ずつ四回打つ、というリズムを発明したのは間違いなく私以外の誰かである(自分だ、という人がいたらスゲーよ、その人、会いてーよ)。にもかかわらず、時にはそういうリズムを使う。全く平気で。誰はばかることなく。


 そういうものは人類共有の財産なのだ、という見解もあろう。普通そうだ。事実そうだ。私はその考えを支持する。しかし、それを発明した誰かがいたのではないか?と考え出すと、ちょっと考え込む。我々は本来、楽曲のクレジット欄に「&人類史」「&誰か」などと書き加えねばならぬのかもしれないのです。まぁ、全員がそうであるということで省略されているとでも考えよう。ウラを読め、ということでしょうか。


 というわけで、一つの作品は、いろんなものの影響を受け、場合によっては何かを模倣しているかもしれぬ要素あり、場合によっては何かをパクっているかもしれぬ要素あり、人類共有の財産の恩恵を受けつつ、巧く立ち回りながら、オリジナルな作品として成立しているのかもしれぬのです。


 ところで、メロディとか、書かれた言葉には知的所有権が無論成立する訳だが、リズムには適応できるのだろうか。作品ではなくリズムそのものに。出来なければ、ドラマーの立場はギタリストのそれに対して、まったくフェアではない。メロディはリズムに優越するとでもいうのだろうか。しかし、とするならば、そのリズムはどれほどアブストラクトで前衛なものなのだろう。非常に興味があるのだ。