一目惚れ


 ふと思い出したことを。


 一目惚れしたことありますか。


 私はある。何度かある。そのまま深い恋患いの世界へ旅立ったこともあるし、ライトな、一過性の一目惚れもある。今も忘れられぬ女の話。いつかの一目惚れの話。


 ギリシャアテネから、クレタ島へ渡るフェリー。アテネの郊外にあるピレウスという港からクレタ島イラクリオという港へとエーゲ海を航行していく。確か、夕方出港すると、翌朝くらいには着いたのではなかろうか。


 最も安いチケットで乗船し、最も安いチケットで乗船している貧乏人向けの船室(大部屋)へ。既に腰を落ち着けていたギリシャ人の兄さんが「ここ空いているよ」と、空席を教えてくれた。腰をおろし、荷も下ろし、辺りを見回す余裕も出てきた。すると、その船室へ女が入ってきた。女の横顔は、大理石の彫刻のようだった。ナスターシャ・キンスキーをもう少しだけふくよかにした感じ。深い憂愁を湛えた瞳。すらりとした肢体、柄のワンピース、眼が釘付けになった。人生でこんなに美しい女を見たことは初めてだったろう。安船室に現れたヴィーナスである。呆けた。


 呆けた私にギリシャ人の兄さんが小声で話し掛けてきた。


 「ジプシー(ロマ)だ。気をつけろ。物盗られるぞ」


 アニキ、遅いよ。俺の心がもう盗られちまったよ。※独白である。そんなこと口に出して言うものか。


 女の後を、女の家族と思しき面々が続く。赤子を抱いた婆あ。むくつけき男。男はどうやら旦那で、婆あが抱いた赤子は二人のベイビーらしい。婆あは女に向かって「リナ」と辺りはばからぬ大声で呼びかけた。


 ロマの女、リナ。彼女達の格好と言えば、回りの乗客からは浮いた感じのものだった。リナはワンピースを着ていたが、婆あの出で立ちは、いかにもそれっぽいフォークロリックな衣装の重ね着で、大量の荷物を抱えていた。既に大した数のない座席は私を含めた先客によって占拠されており、婆あは船室の床にどかっと腰を下ろした。


 ベイビーが泣き出した。火がついたように。一体、これほどの大音響で泣く赤ん坊が存在するのだろうか。窓ガラスを破壊するほどの泣き声である。絶叫である。ソウルである。リナは全く無関心そうで、婆あが赤子をあやしてはリナの名を大声でわめく。赤子のギャーという絶叫と婆あのわめき声。むくつけき旦那に存在感なく、リナは外界に無関心そうで、面倒くさそうな表情をしていた。


 リナ達にとって、その船室は居心地が悪かったのか、しばらくして出ていった。私はその間、リナの顔を穴が開くほど眺めつづけていたが、一度も眼が合うことはなかった。


 私のギターのストラップの裏側には、ある時、酔って書いたものか、黒マジックでこう書かれている。


 「私は1990年から、リナという名のジプシー女を捜しています」


 リナ。今何処。彼女達の旅は続いているのだろうか。それとも私が見たのは幻か。