あまりにもよくある日常


 私は人間として非常に多くの点が欠落した言わば欠陥人間であると言わざるを得ない。
 別に無知の知みたいなことを語ろうとか、俺等身大2008みたいなことを語ろうという心持ちはないのだが、まぁ、ときどき自分がマンガに思える。


 日曜日、なぜかすいとんを作る羽目になる。私は金のない学生時代、小麦粉の可能性を徹底的に、それはもう西洋中世の錬金術師のように研究した経験があるので、ナニ?すいとん?ふっ、俺に任せときな、と一つ見栄を切り、すいとん信州味噌仕立てバージョンを製作する。


 鍋で野菜などをぐらぐらと煮、そこに小麦の団子的なものをぼたっと投入するわけだが、団子的なものを作ろうとボウルに粉を入れ、水を注ぐ前にシャカシャカと掻き混ぜていたらボウルをひっくり返しちゃった。わー、粉まみれである。


 こうした時、人は一瞬、どうにかして現場を元に復旧し、何食わぬ顔をして日常生活へ復帰しようと試みるものだろう。然り。しかし、この現場の惨状は一瞬にして復旧不可能であると言う事態を私に告げている。そこはファンタジー的な、白い世界。


 仕方ねーなー。


 あのさー、手ーすべっちゃってさー、粉こぼしちゃったんだよねー、あははー。


 実に馬鹿の馬鹿な馬鹿につける薬のない言い草である。悪いのはぼくじゃないもんね、何かの巡り合せだもんね、という気持ちも若干ながら行間に込めている。しかしながら多くの場合、こうしたアクシデントを打ち明けられる側というのは、普段、ディエゴ・マラドーナジネディーヌ・ジダンらのプレイなどを「ファンタジスタ!」などと褒めそやすファンタジー主義者を装っていても、突如として「この世にファンタジーもナンセンス・コメディもあったものか」という冷徹なリアリストに変貌するのである...


 すいとんを食い終わり、私はプーアール茶を飲む。変な組み合わせだが、かつて香港を訪れた際、人類が生み出した最も甘美な習慣である飲茶という行いを、しかも婆あが、駅弁行商スタイルで点心を運んでくるという、もはや絶滅したと思しき重要無形文化財的な習慣にて保守する店で堪能し、その際供されガブ飲みしたプーアール茶に感服してしまったのだ。


 さあ、ではティーカップを書斎(悪趣味の部屋とも呼ぶ)に持ち込み、くつろいで一服しようではないか、と灯りの消えた暗い廊下を歩き書斎へ足を踏み入れようとする。


 ドカ。


 何か平面的な構造物にぶち当たり、茶をぶちまける。つまり、書斎の扉が開けっ放しであると思っていたら、きっちりと閉ざされていたわけだ。おでこがいてーぜ。手があちーぜ。床がプーアール茶で染まるぜ。

 無論、私は現場を元に復旧し、何食わぬ顔をして日常生活へ復帰しようと試みる。今回の敵は白い粉末とは違い黒い液体。しかもプライベートな悪趣味の部屋での出来事だ。塵紙で床にこぼれたプーアール茶をパタパタと拭き取る。これで誰にもわかるまい。わかるもんか...


 マンガ的な行動の七割程度は隠匿可能だと思う。が、現場に戻りたくなるホシの気持ちはわからなくもない。