外国語で歌う


♪君はファンキーモンキベイベ だけど楽しい君とナイタンデイ


※↑うろ覚えな記憶にしたがって記述


 音楽評論家の北中正和のコラムで読んだ覚えがあるのだが、日本のロックの初期において、ロックというのは元来、英米舶来であるから英語で歌われるべきものであろうという一派と、いやいや何を申す、日本のロックは当然、日本語で歌われるべきであるという一派が拮抗していたらしい。
 そこに軽やかに現れたのが永ちゃん率いるキャロルで、そのような論争どこ吹く風、英語日本語混成詞を、衝撃と共にメジャーにしてしまったのだそうだ(たいていの作詞担当はジョニー大倉と聞く)。


 それから幾年、そうはいっても、英語派、日本語派、ちゃんぽん派は今日もそれぞれ健在であり、それぞれがそのバンドやアーティストのスタイルをかなり規定する要素にもなっているのではないだろうか。


 英語で歌っていると、やはり本格派な、アメリカ帰りな感じが、あくまでも感じがする。が、何でこの人は英語で歌っているのだろ、英語にどんな義理があるのかな、と訝しく思うことも否定できない。そのあたりの前後関係を詳しく知りたいところだ。


 完全日本語派は、まぁ、母言語だし自然なことだ。特に疑問を抱いたりしないが、日本のロックの初期などには、歌詞がリズムとまったく合っていない非常にダサい例などが見られた。また、一体何を言っているのかきっちり理解できるだけに、馬鹿な曲は本当に馬鹿に聞こえてしまう場合があろう。


 ちゃんぽん派は、正直言って、なぜ、そういう詞を書くことが出来るのか、案外不思議である。今ふと、そのようなマナーで作詞してみよう。


 アイ・ソウ・ア・鳩
 ビーンズ鉄砲でサプライズだぜ
 鳩、夕方までにカムバック
 鳩はピース、そしてデリシャス


 極端な一例であるが、場合によっては馬鹿にしか見えん。こういう音楽を日常的に受容しておれば、ルー大柴や長嶋に何の違和感があろうか。



 このところ、自作の英語の歌を練習している。しかし、英語に何らの義理がある心当たりはないので、じゃあ仏語も、そしたら独語もと、全くちゃんぽん化しつつある(センテンスの中で混在はさせていないが)。そしてどの言語もまともに出来ないところが悲しみを誘うのである。はっはっは。言語に束縛されることのない自由なロック感性が、人をちゃんぽん詞に向かわせるのだろうか。えー?そうかな。


 しかし、なぜろくに出来もしない言葉で作詞し歌おうとしているのか、我がこととして明快な答えはない。子音が連続するリズムの面白さだろうか。


 ちなみに、外国語で歌うと、使い慣れない筋肉を使うらしく、翌日、顔や首に違和感。また、喉が妙にがらがらだ。