デング熱
というバンドがある。正式名はDengue Fever。
カリフォルニア在らしいが、ヴォーカルの女性の出がカンボジア人のようだ。私もWikipediaの英語版での記述以上のことは知らない。
一時、その筋でカンボジアン・ロックが熱いぜ!となっていたらしいです。まぁ、その筋ってのがどの筋かさっぱりわからんのだが。
で、それが進行形ロックか、過去ロック発掘か、その辺もよく分からないのですが、とりあえず「熱いぜ!」の比較的中心にあるバンドという解釈で間違いないのだろうか。私も存在を知って以来、気に入って好んで聴いている。
西海岸伝統のサウンドに、クメール語の歌詞、節回し。確かに熱出てきそう。
カンボジアでのドキュメンタリーも撮影したらしいっす。余談だが、最後のカットで人満載のトラックが向かっていく黄色いビザンチン建築みたいなシルエットのやつが、プノンペンのセントラル・マーケットである。建物内部では比較的金目のものを売っていて(宝石・貴金属とか)、建物の外周では生鮮の露店がびっしりだったような覚えがある。私もでっかいマンゴーとか、カボチャの中にココナッツプリン詰めたやつを切り売りしているのとか、購入した覚えがある。
こういう映像を合わせて味わっていると、蒸し暑く甘ったるい風に吹かれて、熱に浮かされた夢幻の境地など彷徨うのも、なんと贅沢なことかと思える。困ったものだ。困った存在だ。妙なバンド名つけて。
今年の虫刺され状況
そもそも人と虫くんとはお友達じゃないか。
だのになぜ、僕は耐えるのかね、こんなにしてまで、あー痒い。
結論的に報告しますと、7月・8月・そして今進行形で9月と、今年はなかなか結構なペースで蚊に食われた。50ヶ所くらいじゃねーかな。やってらんねぇ。
私は、趣味と実益を兼ね園芸などたしなむ平和な人物である。栽培しているものは少量であり、しかもそれは雑草に毛が生えた程度のハーブ的な草の類ではあるが、さすがに盛夏には朝晩散水せねば枯れてしまう。そこで仕方なくじょうろやバケツに水を汲み、しゃーっと水撒きを行う。
朝はまだいいんです。夕刻です。縞々の肢を持った蚊が群れをなして襲いかかってきやがる。
私は、若い頃、蚊・ダニ・南京虫らのマルチアタックを幾度となく受けてきた経験があるのであーる。さすがに一度に3ケタ刺されると痒みで頭おかしくなるよ。まぁ、そんな向う側を見てしまった俺であるがゆえ、痒みへの耐久性は並ではない。少々の虫刺されなど、精神力のみで完治させることすら可能なのである。
とはいうものの、ほんの束の間の水撒きの間に、2ヶ所・3ヵ所・4ヶ所・5ヶ所とマルチに刺されると、さすがに痒い。刺されたところはみるみる赤くふくれあがってくるし。
ま、そんなときでも痒み止めを塗ればすぐに治まります。透明のジェル状の奴がすぅっとして気持ちいーね。人間、何事も落ち着きが肝心だね。しかし、それにしても毎年、こんなにも刺されたかなぁ、と腕組みをし、じっと考えてみる。否、これは多すぎだろう。
しかもですね、外に出る際は一応用心のため蚊に効くカトリスを装着していたのにこの有様である。同様の装備で去年まではそれほど刺された覚えが無いのだから、商品を批判するに足る正当な根拠があるかどうか判断を下し辛い。これは、蚊の行動が変わったのか、蚊に効くカトリス耐性蚊が出現してきたのか、我々はその辺りを疑らねばなるまい。
単純に思ったのが、今年の夏は猛暑でしたね。うちもです。そこで、蚊の野郎、日中暑すぎて、くてっとしておったのではないかと。日が陰ってきてから、従来なら日中も活動していた分を取り返すべく、蚊に効くカトリスの効き目が拡がるエリアであろうと、猛然と神風的なアタックを敢行しているのではないかと。おお、蚊の生態はまるで知らんが、なんだか論理的。
そういう訳で、今日も痒みポイントに痒い薬を何ヶ所か刷り込みつつ、この夏の思い出をしたためてみました。暑すぎて、部屋で楽器弾いてることもままならぬ夏であった。これからその分を取り戻すべく猛然と弾いちゃおうとは思うが、涼しくなると幾らでも眠れてしまうのも、秋の特徴だよね。注意したい。
最近の活動状況
いやぁ、最近twitterでの呟きがあまりにも忙しくってさぁ、でも、これからは日報もちょくちょく記しますね。
久しぶりなので最近の活動の状況を記します。
移動式音楽班「扉」
本家のサイトにて公開してます。Garageband Users Clubにおいても公開させていただいており、あれこれ語っております。
クラシックギターの爪弾きを土台に、自分としてはオーソドックスな編成で幾つかの楽器を合わせているですが、制作しているうちに、当初目論んでいた感じよりも何だか、暗いのか明るいのか、静かなのか燃えているのか、どちらともとれるような感じになったような気がします。
ギター類は弾いていて結構楽しかったのですが(明るいのか暗いのかわからなくて)、導入したバイオリンが辛かったっす。そもそも弾けもしないものをなぜ導入するのかというところが問題な訳ですが、そこは自分の美意識に則ってやっているわけで「このフレーズは、うん、バイオリンだね」と決意したならば、それはもう、弾くしかない訳ですよ。
4小節のフレーズの繰り返しを弾くだけなので、「ま、このくらいできるでしょ」と軽い気持ちで取り組んだのですが、丸一日近く同じこと弾き続け、録音・ストップ・モニター・削除を繰り返し、まぁ、それでこんなものです。最終的に、存在をなるべく気付かれないように編集するという老練なテクも駆使しました。どうだ参ったか!(誰に向かって問いかけているんだよ)
cat-o'-nine-tails - "coma boyfriend"
cat o' nine tailsというバンドというかユニットというか、あぁ、グループと呼ぼう。その曲で演奏しています。メンバーのkuroさんが友達で。
まぁ、私に高度な演奏力は求めていないでしょうから、きっと私に醸し出せる、ある種の雰囲気のようなものが、曲自体が持つ雰囲気と合わさった時に生じる何がしかの効果が狙いなのであろうと、企画の意図を勝手に解釈し取り組んでみました。
といっても、演奏したのはこれ結構以前なのですな。2009年の初頭頃、少なくとも冬の間だったはずです。覚えている狙いとすると、cat-o'-nine-tailsによって、ある程度再現可能なものにしようということだったでしょうか。私の武器庫を麗々しく彩る世界の民俗楽器の大軍などを動員したならば、そりゃー私は大軍の指揮官としてノリノリの楽しい日々を過ごしたことでしょうが、その後の再現可能性は著しく下がる訳です。ということで、ギター主体で簡素に弾いてます。大体、歌唱がウィスパー系ヴォイスで、背景が大軍って、なんか不自然だよね。
そんな風に私が演奏したものに、Grand_Portさんという、ちなみに私はこの方と神奈川県平塚市のワタミで朝まで痛飲したことがあるのですが、まぁ、そういう方(どんな方じゃい!)が更にノイズ的なビートを付加し、曲の世界観を練り上げたものが公開されています。
ちょっとこの処理には驚きました。私もノイズが刻むビートというアイディアは随分前から構想していて、なかなかうまいこと形に出来ないのですが、さすがです。やはり盃を交わした間柄だと、違うね。うん。間違いなく違う。何が違うかと問われると答えられないが違う。やっぱり気心を知るには酒だね。
※ちなみにGrand_Portさんの作品はこちらなどで
さて、で、この曲は私が録音してからリリースされるまで間があったことで、その間、私がざっと編集した、私自身のリスニング用のラフなミックスが私のiTunesの中やiPhoneの中には存在していました。それをちょこっと編集してみたものも公開されています。まぁ、上記のバージョンと私がやっていることは同じですが、声の処理などに、とっても微妙に変化をつけてあります。よろしければ、そちらもあわせてお聴きください。
さぁ、これからも続々制作しますよ。という意気込みは存分にあるのだが、部屋が暑くて、到底何もできない期間が一月以上も続いているのである。
波
今年の冬のある日、冷たい部屋でギターを爪弾く。
ボロン
弾いているうちにちょっとした進行を思いつきメモする。
そんなときのメモであるが、ノートに殴り書きなので、後々、解読に苦労することが多い。ないよりはマシなレベルである。
ギター弾いていて思い浮かんだ場合は、縦に6本、弦の数の線をダーっと弾き、横にフレットを表す線をザっと引いたダイヤグラムに、指の押さえ方を記しておくことが多い(例えばマンドリンだと縦線は4本となる)。
しかしその方法では指遣いを変える度に、幾つものダイヤグラムを記さねばならず面倒だし、運指に動きがある場合は表現し辛いので、弦を表す線を横方向にビヨ〜ンと6本引き、その上に押さえるべきフレットの番号を記すこともある。簡易タブ譜という感じで、こちらの方が流れは把握しやすい。
どちらで記録しても、どちらもオーソドックスな方法だろうし、どちらでも構わないのだが、前者の方が視覚的に押さえ方を把握しやすい。ギターを覚えたての頃(いつのことだよ)、眺めて弾いていた歌本に記載されていたダイヤグラムがそうだったからである。というわけで、縦線=弦方式で、そんな風に押さえ方を2つ記した、ある冬の日のことであった。
え?押さえ方二つ??たったの二通りですか???
そーっす。たったそれだけの労力で曲が出来ました。
もしよろしければお聴きください。
移動式音楽班「波」
ま、二通りの押さえ方というのは伴奏で、ちゃんとそれなりにエレキマンドリンなどで旋律も弾いちゃったりしているのだが、それも繰り返しだったりして、まぁ、なんともとってもシンプルな、くどくど説明する要素のあんまりない曲なのであろう。結構だ。
ほんの気まぐれや、ちょっとした成り行きで、こんな生を営み、また、こんな音楽も演奏していたりするのだが、まったくその「ほんの」とか「ちょっとした」という奴が侮れん。んー侮れん。現在進行形で侮れん。私は一体どこへ行くのだ。
と、そんな曲です。では、次の曲の制作に取り掛かります。
賭けと念
日常、何気ないことに人生を賭けてみることってありませんか?
私は青少年時代からよくそんな賭けに耽って参りました。
青少年時代の例を挙げると、線路のレールの上を落ちないで目標ポイントまで歩いて行ければ彼女は俺を好きになる、とかそんな感じの。
彼女が俺を好きになったかどうか、今となってはどっちでもよくなってしまったが、とりあえず、電車に轢かれたりしなかったことの方が、今となっては余程重要に思える。線路の上を歩いたりするものではない。田舎環境ならではの賭けといえよう。線路が通学路だったのだ。
さてサッカー・ワールドカップである。
目下、日本代表はグループリーグを二位で通過し、いよいよ決勝トーナメントへ挑むところまできた。
その快進撃の陰に、私の人生の賭けがあったことを人は知らない。
<実録秘話・日本代表快進撃を支えたある男の挑戦!>
6月14日は、日本代表の初戦、対カメルーン戦の日であったが、その日は私にとっても年に一度の恒例イベント:健康診断日でもあったのだ。毎年記しているが、胃カメラ飲み込む日ね。
毎年、私はカメラを飲み込む際「うえっ」と声を上げ、カメラで胃内を撮影されている最中「ぐえええ」とげっぷを堪えられず、溢れ出る涙で何も見えない状況となる。修行じゃ。修行なのじゃ。
しかし、今年の私は、私に賭けた。
「胃カメラの最中、泣かなかったら日本代表が勝つ!」
おお、日本の命運を一身に背負った男、それが俺。まさかそんなこと、看護師も医師も知る由もなかろう(言えるか、そんなこと)。
実際、遠慮なく扱われた感じはある。
「うえっ」
「ぐええええ」
「ぐええええ」
「うえっ」
その間、看護師に背中をさすり続けていただいたり、励まされたり、毎度のことであるが苦しく情けないものだ。そして、遂に私の喉をカメラの管がするっと抜けて行った時、私は私に課せられた使命を思い出していた。
泣いたか?泣いたのか俺??
左目から溢れる涙は、それは隠しようもなかった。それも人生。私は右腕で左目の涙を拭った。
しかし、おや、右目は乾いていた。右目は泣いていなかったのだ。
これって、どういうこと?勝ち?負け??
釈然としない気分ではあったが、その夜、代表は歴史的勝利を刻むのである。
このように、世間は知らぬだけで、歴史的事実の背景には、いろいろな念のようなものが隠されているものなのだろう。私の右目までもが濡れていたなら、一体どんなことになっただろうか。なんと恐ろしい。
と考えると、いつの日か、中国対インドのような超大国(人口的に)同士が決勝などで相まみえるとしよう。そして国民が一心不乱に念を送ったとしよう。
10億超対10億超。
片や小龍包食って口の中火傷しなかったら中国の勝ちに賭ける国民だけで恐らく2億、片や今日の弁当がカレーだったらインドの勝ちに賭ける国民だけで恐らく8億、飛び交う念の重さにフィールド上の選手達は微動だに出来ない状態になるに違いない。蹴った球も選手の意思通りに飛ぶものか、念によって軌道が大幅に歪められるか、それは蹴ってみなければ決してわかるまい。
ということで、決勝トーナメントでも私はひっそりと何かを賭けてみようと思うのである。多分だが、人口規模1億超のこの日本であるから、私同様、胃カメラ飲んで泣かなかったら日本の勝ちに賭けている人が、6万人くらいはいるんじゃないかと思っている。みんな、泣くな!泣くなよな!!
マンドリン弦を語る
さて、今日は少しためになることを書いちゃおう。
私はマンドリンという楽器を奏でたりする。もうその書き出しから、人類の99%にとって別にためになるのではないことを書こうとしている香りが、ぷわ〜んと漂ってくると判断せざるを得ないが、その、残りのカスカスな人材の為に記そうとしているのである。あなたカスカスですか?私はカスカスです。
マンドリンに、胴が洋梨を半割にしたようなものと、胴の背面が平たいものとがあることを御存知でしょうか。前者はクラシック・ギターとのアンサンブルなどに、後者はカントリー音楽などに使用されることが多いようです。別に好きな用途で使えばよろしいと私などは思うのだが、それがそれが。ところがところが。
私はその両方を所有しているのだが、胴の背面が平たい方は、昔、イスタンブールで邦貨換算2000えんくらいで購入したもので、まぁ、置き物に毛が生えた程度のクオリティである。演奏にはきつい。
しかし、それまで半洋梨型のマンドリンしか奏でたことのなかった私は、このフラットバックなマンドリンに出会い、一つのことを知った。
フラットマンドリンの弦は、私がそれまで使っていた半洋梨型マンドリンのそれより、格段に安い。
どちらも4コースに2本ずつ、計8本の弦を張るのだが、フラットマンドリンの弦は1セット800円くらいで買える。どんな程度かはわからんが、とにかくぼくのお小遣いでもへっちゃらな価格だ。
では一方、私がそれまで購入してきた半洋梨型マンドリン弦はといえば、驚くなかれ3500円くらいしやがるのだ。4倍以上である。おそるべきその格差。
オプティマ(昔はマキシマという名前だったが)というブランドの赤いパッケージの弦をかれこれ20年くらい使っている。というか、それしか使ったことがないともいう。20年前は、そんなに高くなかったような気がする(してたら弾いていなかったと思う)のだが、現状の田舎暮らしで、それを入手できる楽器屋で1セットを購入すると、必ず「は?」という気分にさせられるのだ。ぼくのお小遣い大ピンチ。
それなら、と、安いフラットマンドリン用の弦を半洋梨マンドリンに装着すればよいではないかと当然考えるに至るというものである。うん、装着は可能だよ。が、しかし、音が妙なのだ。それは私の知る半洋梨型マンドリンの響きとは異質な響きなのだ。そもそもクラシカルな演奏ができない私にとって、全然快くないのだから、クラシカルでトラディショナルな演奏をたしなむプレーヤー達には、より強い不快感が極まるであろうことが察せられた。何というか、浅い響きのチープな金属質の音になる。
というわけで、茹でた弦を装着してみたり、いろいろと邪な道を歩んでみたのだが、最近、マンドリンを弾く機会があまりなく(ブズーキなどを入手したというせいもある)、弦問題はぼくのお小遣い問題として深く沈潜しておったのだが、ここにきて再浮上してしまったのだ。
先日、どーれ、久々にマンドリンでも弾くか、と、糸巻きを操って調弦しようとしていたところ、いきなり「ベシ」という音とともに弦が切れた。やはり茹でた弦は劣化する。当たり前だ。そもそもの企画がなっちゃいない。
いよいよ弦を購入せねば。しかし私には斬新なアイディアがある。ネットで探せばいーじゃん。
おいおい、いつの時代の人だよ、と思われるが、マンドリンに関しては今初めて実行することなのだから仕方がない。検索し、捜索してみると、かなーりお安く購入できる実態が次々と赤裸々になってきた。3500円は1ドル300円くらいのレートに思える。
通販している先はいろいろとあったが、私が決めたのは、こちらである。
弦各種というページから、オプティマのマンドリン弦が、ぼくのお小遣いでもへっちゃら価格で購入できます。思わず2セット注文してしまったぜ。そして注文したら翌日届いたぜ。速いぞ!ありがとう!
が、考えてみると私のプレイ・スタイルは、そもそもフラットマンドリン的なものなのではないだろうか。じゃらじゃら弾くし。まぁ、今は、楽器を変えたらどうなのだろうか、という私の胸にくすぶる疑問はそのままにしておきたい。
というわけで、マンドリン弦1セットへの出費3500円にお悩みのあなたは、この日報を参考にされると、とってもためになるのだと思うのだよ。
臓物のメロディ 臓物のリズム
曲を制作してみました。
一般に流通するポピュラー・ミュージックの尺度で比較すると、若干長めの曲ですので(約7分半)、
お時間がありましたらお聴きいただけると喜ばしいことです。感謝いたします。
作詞:俺
作曲:俺
演奏:俺
*
ぼくの好きな食べ物は肉
(ある小学生の作文より)
昔、小学生の作文コンクールの入選漏れ作品(むしろ落選作品と言う)にお兄さんからの励ましの声を手書き記入して返してやるというバイトをしたことがあった(極短期)。その際に、子供が作文中発していたストレートでけれんみのない一言が胸に焼き付いているのだ。
ボーイ。わかった。お兄さん(当時)、良くわかったぞ。君は肉が本当に好きなんだ。だけど、ボーイ、体言止めは感心しないぞ。いや、ストレートなインパクトをお兄さん(当時)個人は歓迎したいのだが、体言止めは教育制度の中では評価されにくいんだ。「肉です」と「です(=用言)」をつけて綴ろうね。しかも、この作文コンクールのテーマは「海と魚について」じゃないか?ダイナミックに肉主張をぶっ放してる場合じゃないだろう。でたらめじゃないか。世渡りしろよ。まったく子供ってぇやつは。
さて、子供をして体言止めで好きな食べ物は肉と主張させるのであるから、肉というものは、それはもう、この世の真実のひとつなのであろう。思えば、この日報も長くダラダラと続いており、その中ではかつて、様々なこの世の真実が展開されてきたものだ。ブログ内検索をちょろっとかけてみると、おお、既に肉の真実性について語っておる。更に、ビールとイモ、アイスクリームなどもこの世の真実として語っておるぞ。うむ、それは真実であろう。自分自身のブレのなさにびっくり。
私であるが、肉も喰らうのだが、その態度は体言止め小学生ほどのものではない。大声で絶叫したいほど好きなものといえば、むしろ、真っ赤なトマトとか、熟れたマンゴーとか、冷えたビールとか、インド人が注いでくれるミルクティーとか(つまりチャイ)、台湾人が注いでくれる烏龍茶とか、私は喉も破れんばかりに絶叫できるであろう。好きだぁー!!お前が。(倒置)
肉で目を輝かせるものというと、私にとっては羊と鴨である。日本で暮らしておるとあんまり食う機会がない。機会がないゆえに、連中の出方というか、考え方というか(考えてねーだろうけどさ)、まだまだ学ぶべきところで一杯だなと感じる。食う度に。そう、私は食うことを通じて成長したいのである。腹を突き出したいとか、そういう意味ではない。
臓物もよい。部位によって味わいは違うが、動物の身体の一部分を食っていることが認識できてよろしいと思う。そこにはそれぞれの味わいというものがある。薄くスライスした肉や、ミンチにした肉を団子にしたものなど、それは身体の一部分を食っている感覚から遠く感じられるのだが、例えば骨付きの肉ならばそれよりも動物の身体の一部を喰らっていることをリアルに感じさせるし、臓物は更にそれを意識させる。駄目な人には駄目らしいが、まぁ、とにかく中身が白日の下さらされている状況で、私の五感は活動を開始する訳だ。小学生の言葉を借りるなら「ぼくの好きな食べ物はモツ」ということになろう。結構だ。
臓物を喰って出来た曲という訳ではないし、肉食全般について歌いたかった訳でも全くないのだが、臓物を喰らう俺が作った曲ではある。
何と申しましょうか、カーニヴァル的な、そういう曲です。