メルセデス・ソーサ / この手に大地を


 世の中、凄まじい歌、凄まじい演奏というものがある。
 私の母など、音楽はTVの中だけでしか聞かないタイプだが、出てきた頃の吉田拓郎の歌を初めて聞いたときには、長髪で怒鳴るように歌う姿に、怖いものを感じたと語っていた(古い話だぜ)。


 吠える、怒鳴る、叫ぶ、金切り声を上げるなどといったものが、懇願、怒り、悲しみ、怖れなどといった感情の極度の表現であるとすると、その洗いざらいな歌唱は、上手下手関係なく、聞く人の心に何か作用する気はする。
 

 だが、聞く側にとっては、そういった極度ものがズケズケと日常に侵入してくるのはマナー違反だぞ、不法侵入だぞ、迷惑至極だぞ、と捉える向きもあり、有無を言わさず拒絶する場合も多い。不愉快なわけだな。


 「うるさい、うるさい、うるさーい」
 「やめて、おやめなさい、やめろっつってんだろ」
 「訴える」


 などといった具合にだ。


 私もロック青少年時代、かような弾圧(?)現場と出会うこともしばしばあったものだが、吠えている側は自分の気持ちに正直にやっているだけの善良なことなのであるから、弾圧に対するレジスタンスは正義という善良な論法で、更に騒音三割増くらいになるのが善良なロック青春というものである。たいてい青春起因の熱病のようなものである。無論、立派に意義がある。若人よ、堂々と叫び軋轢を生み弾圧されたまえ。


 さて、ここまでの前置きを経て、突如、南米に飛ぶ。ここからは簡潔に記そう。どういう文の構成じゃ。


 南米諸国の現代史は左翼政権、軍事政権、自由主義を標榜する政権などが交錯するものである。軍政を経験した国では、その時代、メッセージ性の強い音楽を発していたアーティストは随分と弾圧されたと聞く。チリのビクトル・ハラに至っては軍政側に銃殺されてさえいる。命を賭して抵抗の歌を歌ったわけだ。


 アルゼンチンのメルセデス・ソーサも軍政時代、ヨーロッパに暮らすことを余儀なくされたという。歌を通じ社会変革を訴え、民衆の声を代弁する旗手と目されていたそうであるから、苦しい状況であったことだろう。


 「大地の」と形容されるような彼女の歌は、包み込むような優しさ、飛び立つような力強さ、人生というものが垣間見せる奥深さを備えた、稀有の凄まじさが漲る。


 過去二度あった来日公演の際には、公演の終わり頃になってプロモーターにギャラの引上げを要求したというエピソードなど伝え聞くが、そのしたたかな面も、実に良い。最後に凄まじい曲が残されていて、も少しカネ積まなきゃ歌わん、とゴネられたなら、タフな交渉になるだろう。


Mercedes Sosa / Cuando Tenga La Tierra