ボスボスボス


 それから春分が過ぎ春が来て、夏至が過ぎ夏が来た。


 月並みかとは思うが、笑ったり泣いたり、飲んだり喰ったり、働いたり遊んだり、戯れたり悩んだり、歌ったり踊ったり、この生を、それが果てるまで、味わい尽くすよう精一杯生きることが、今もここにある者に出来る弔いの姿かもしれない、と思っている。


 というわけで、太鼓でも叩いてみようと思い立つ。お部屋で。
 当然、太鼓をボスボスボスと叩いてみれば、そこから発せられるサウンドのウェイヴが近隣住民に音速で到達し、ま、普通それは近隣住民にとって不愉快なものであろう。


 しかしまた、我が良き近隣住民たちも、私が未だ睡眠のさなかにある早朝時間帯に、チェンソーでお庭の枯れ木を切断し始めたり、トン&カンと日曜大工をおっぱじめたり、そのサウンドのウェイヴは当然、私の鼓膜に音速で到達し、瞬時に私の脳内に当惑と、続いて殺意に似た感情を去来させるに至るわけであるから、所詮、生きるということは軋轢そのものなのである。


 と、不惑の達観に浸りつつ、あれ、およよ、太鼓のバチが見当たらねぇ。あまりにもしばらくぶりに叩こうとしたら、バチがお部屋の中で行方不明になっちまっただだよ。


 その現在のお部屋状況であるが、狭い。ただでさえ狭かったところ、冬季に知人から廃品同然のギターを2本も頂戴したり、出来ごころでBOSSの中古サンプラーを購入してしまったり、弾いたギターをケースにしまわずその辺に立てかけておいたり、そういった積み重ねで更に状況が悪化しているのだ。


 で、バチであるが、お部屋内ローラー作戦(約5分)を敢行したところ、ありました。まぁ、バチが主体的にお部屋から出て行くことはないだろうし、バチに用がある人員は我が家には私以外おらんだろうから、それは見つかる。ただ、それがオートハープのケース(自作)の上のような、太鼓のバチとまったく関連付けられていないグッズ近傍だと、見つけ辛いということである。誰だよ、こんなものの上にバチを置いた奴!


 俺だよ。


 ボスボスボス


 終日、近隣住民の迷惑を最小とするよう控え目に太鼓を叩き、リズムアンサンブルを録音してみる。そう、私は録音された音楽を制作しようとしているのだ。何か月ぶりだ。そして、さっぱり調子が上がらない。


 まぁ、技量の問題ではなしに(いや、それも問題なのだが)、なんとなく、求めてる音との距離感、とでもいうのかな、お、なんだかあーちすとっぽい言い草だね、そこで躓いている。うまいこと気に入った音が出せないものよのぅ。録れないものよのぅ。


 私は私なりに、今、私が求める音を記録したいと思っている。まぁ、いずれ結果はボスボスボス、という音に違いないのだが、それは私にとっては私の心の変化の、ちょっとした記録になるはずだろうと思う。

オレラ


 オレラとはロシア風に書くとОрэраであり、ラテンアルファベットに転記するとOreraであり、日本語で言うところの俺らではない。最近知った楽団の名前である。


 グルジアトビリシ生のRobert Bardzimashvili(ロベルト・バルズィマシヴィリとでもお読みするでしょうか)が中心となって1958年に結成され、70年代さなかまで旧ソヴィエト連邦で活躍したグループとのことである。もちろんここまでの情報はすべてwikipedia仕込みのライトな知識だ。オレラのページはロシア語かグルジア語なのでちょっと苦戦した。オレラとは、グルジアの民謡コーラスからの翻訳不能な語のようです。なんのこっちゃですわ。


 ということで、グルジアと言えば、彼の地に息づく男声合唱は人類の究極の一つとして名高いものがある。こんな感じである。



 ここでヨーデルのような歌われかたをするパートを「クリマンチュリ」と呼ぶらしいが、オレラの鬼才ぶりは、そうしたグルジア伝統要素と都会的でクールなサウンドを見事に融合させ洗練させた点にあるね。それでは張り切って行ってみましょう!



 痺れるぜ。しっかりスウィングしているぜ。その上で縦横に駆け巡るグルジア合唱的なコーラス。そして見逃せないのがツボを心得た演出と映像編集の妙。俺のハートにずんずんずんと不法侵入だぜ。あー、こういう方向性のバンドやりてぇ。※スウィングがね、苦手なんだけどね。


 しかしオレラの他の動画を探ってみてもこれほどイカシたサウンドにはぶち当ってこない。この曲は奇跡の一曲なのか?誰かオレラに関する耳より情報を発掘された方、教えてちょ。と、オレラ状況に目が離せない2011春な訳だが、ロベルト・バルズィマシヴィリ氏(とお読みするのか?)は既に2003年に他界されていた。全く残念なことだ。

風よ吹け弦を鳴らせ


 唐突ですがエオリアン・ハープをご存知でしょうか。


 共鳴箱に張られた弦を風が横切っていくと、不思議な音が鳴る楽器です。下記動画の4分あたりの感じ。



 なんとも神秘的ではないですか。発音原理はここでくどくど説明するのが面倒なので、この辺をご覧ください(手抜き)。


 さて。つまり、どういうことかというと、欲しい。非常に欲しい。欲が、欲が抑えられねぇ。


・・・


 私の住まう町であるが、これが風の強い町なのだな。両隣の町の方が更に風が強いとも感じるが、それでもこの町にも侮れん強風が吹き荒れるものだ。特に冬の寒風。無防備で歩いていると耳が千切れそうになるぜ。やってられんのだぜ。


 夜。強風が吹き、そこらの電線をかすめた風は「ぴゅう」「びゅう」と、なかなか腰の据わったサウンドを奏でていく。物心ついたときから今に至るまで少しも変わらない荒れた冬の光景を彩るサウンドだぜ。彩るといってもカラフルな感じはしないぜ。まぁ、この辺に暮している人ならわかってくれるだろう。


 原理としては同じことだと思う。ならばこれからの強風突風シーズンで大活躍を期待できるインストゥルメントではないだろうか。もしも、私の住まう町の住民が各家庭に一台、この楽器を導入し、軒にぶら下げるなり、屋根に据え付けるなり、庭に放置するなりしたとしよう。町がうわんうわん鳴り響くかもしれん(逆に打ち消しあうかもしれん)。うまくいけば町起こしになるかも。音馬鹿町として。うわ、それすげえ!


 まぁ、エオリアン・ハープなどと、ギリシャ風の洒落たネーミングのため、そよそよっとした心地よい風が私の頬をかすめていったわ不思議な音とともに神々の悪戯ね的な、快い癒し感覚を感じてしまわないこともないではないが、そんなことは春〜夏の間にしてくれ。もう冬なのじゃ。


 冬には冬のサウンドがある。それを追求してみたいではないか。強風だから良く鳴るというものなのか、その辺りは楽器の個体差などもあろうし、さっぱり分からないのだが、冬の乾いた零下のつむじ風が、この楽器をしてどんな音を奏でるのか、興味があるのじゃ。問題は入手経路が分からないことじゃ。そして作るには不器用なのじゃ。更に多額のマネーを投下したくはないというケチな心性じゃ。う〜む、どうしてくれよう。

いちじく


 秋はいろいろと食い物が美味い。これは疑いようもない事実である。


 そうかといって夏も美味いし、春も美味いし、冬ですら美味いので、わお、地球は食いしん坊プラネットだぞぅ!と絶叫したい気持ちもやまやまだが、そんな俺の叫びを聞きつけた邪悪な異星人に地球が侵略されても、さすがに俺もそこまでの責任は取れんため、ここのところは「秋は美味」と、ほどほどな程度にとどめておこうじゃないか。


 さて、お手軽に楽しめる秋の味覚の醍醐味と言うとフルーツですね。列挙していくと小学生の作文ぽくなるのでやめましょう。今日私が訴えたいことはいちじくの魅力です。



濃紅に色づいた果実、細く尖った頭をつまみ、ぼてっと膨らんだ尻にかぶりつく
尻に開いた小さな穴
それはいちじく内部への入り口である
齧りとられた裂け目からルビイ色の内部が露わになる
舌の上には、ゆっくりと浸透していくような甘さがあり
口中の果肉を更に噛み潰すと、ぷちぷちとした非常に小さな固まりがはじけて消えた



 多分、お子様向けではないと思います。私も大人になって非常に好きになりました。


 八百屋などでいちじくが買い頃な価格で販売されていると迷わず購入する。そうそうビッグセールされている食材でもないが、チャンスと見るや購入するので、一シーズンに何度かは食う。たまんねぇ。


ギターのピックアップ


 20年前くらいに、生楽器用の簡易なピックアップを購入し、今も所蔵している。当時、何か演奏会(ライブなどと言い換えてもよい)の折に、マンドリンか、あるいはクラッシックギターをアンプに繋ぐ用途で購入したと思う。


 何という品番かよくわからないのだが、GUYATONEのGP-5Aというブツにそっくりなのでそれなのだろう。まぁ、そもそも録音やらライブやらで使えるような品質とは思えないのだが、では何ゆえにこのプロダクトの存在意義があるのかと言えば、生楽器の音を電気的に増幅できる、という本質に尽きる。どんな音で、というような小賢しいことを問うてはなるまい。


GUYATONE GP-5A アコギ用ピックアップ

GUYATONE GP-5A アコギ用ピックアップ


 さて、20年の間に経年劣化が進んだか、それとも前からそうだったのか、音はぱっとしない。何と申しましょうか、薄っぺらい。そして低音のノイズが「ぶーん」と鳴っているのは、このタイプのピックアップの特徴でしょうか(アースをとればよいのですが)。


 まぁ、長年、手持ちの楽器の生音を電気的に増幅する必要もほとんどなく、音声を記録する際にはマイクで収録すれば良かったもので、この手のものをほとんど必要としてこなかったですが、事情が変わった。ループマシンというものを昨年あたりから所蔵しており、楽しく遊んでいたものの、どうも気に入らないのです。入口がマイクというセッティングが。


 マイクで楽器音を拾い、ループマシンがそれを記録し、延々とループさせ、アウトプットする。単純だ。が、入れたつもりの音と出てくる音が同じ音である気がしない。安定しない。


 まぁ、楽器とマイクとの距離とか角度とか、常に一定ではないし、その時々の良く言えば「空気感」悪く言えば「雑音」みたいなものも連れてきちゃうし、仕方ないのかもしれないが、どうも気分がすぐれない。フィーリングの問題だね。良い時もあれば悪い時もあるという。


 ということで、楽しく遊ぶためにピックアップを新規に導入することにした。「生音」というものは否応なく犠牲になるが、気分がすぐれないよりはよかろう。


 いろいろ検討し、フォークギターとブズーキにそれぞれタイプの異なるものを装着してみることにする。


 フォークギターには、昨今何かと話題のレアアースというやつである。フィッシュマンというメーカーの製品で製品名がレアアース希少金属使っているわけではないと思う使っているです。希少〜。マグネチックタイプというやつで、そのシングルコイルのタイプ。アクティブなのでプリアンプは必ずしも要りません。



 その辺のAC電源とか、蛍光灯とか、その辺りの影響でノイズを発生しやすいのがシングルコイルの特徴かと、実際そう感じますが、音はブライトで厚みがあり悪くないと思います。今までと比べると雲泥の差だぞ。


 ブズーキには、シャドウというメーカーのピエゾ2個付きのものを導入する。ブズーキのサウンドホールがちっこくて、表板の裏の狙ったポイントに貼り付けることが至難の業である。それは計算外であったが、表面に取り付け露出させておくのはダ・ダサすぎる気がして無理してサウンドホールの穴から手を突っ込んでみた。手の甲は擦り剥けて血が滲んだよ。



 よく考えると、こうしてサウンドホールから配線が出てくるのもダ・ダサすぎる気配が十分みなぎっているが、もう後には引けません。


 音は、値段相応のナチュラル感です。高域より中低域の方が出ている気がするが、表板裏の狙ったポイントにピックアップを貼れていないのだからこの感想はあてにならないかもしれません。プリアンプで補正も効くかもしれないし。しかし、もともと過度にシャリシャリした音の楽器なので、却って良いと考えることも、できるかもしれない。低音の「ぶ〜ん」ノイズはあるので、使用する方は必ずアースを考えることになるだろう。私はしますよ。


 レアアースはフォークギター以外に取り付かないのだが、シャドウはどんな楽器にも取り付けられる。まぁ、ブズーキからの取り外し及び再装着の度、私の手の甲に血が滲むことになるだろうが、必要があれば、それは可能である。


 さて、そんなことで、それぞれループマシンに突っ込んで遊んでみる。


 おお。


 そうそう。多くを望むわけではないが、これは十分な効果だと言えよう。入れた音が出てくる。その辺の安定感というのは、電気の特質だね。いいぞ、電気。(結論やや意味不明)


FISHMAN Soundhole Pickups Rare Earth Single Coil Pickup レア・アース (Single)

FISHMAN Soundhole Pickups Rare Earth Single Coil Pickup レア・アース (Single)

民衆歌の新しい一座


 最近は心を入れ替えて本来の音楽ブログちっくな佇まいを醸し出している移動式日報どえ〜す。


 基本的に、気になる音楽ネタを取り上げつつも、アーティスト本人の情報などは、そんなもん他人事だし、調べたり綴ったりするの面倒くさいし、ろくに触れない心構えでやってます。まぁ、基本的に音楽そのものが重要なのであって、アーティストの属性などは、場合によっては売らんがための虚飾と神話に粉飾されていることも往々にしてあるので。そういう部分で実勢価値よりも高値で取引されているよなぁ、などと底意地悪く感じる音楽は多いね。特にどの国に顕著などとは申しませんが(薄々は思っているけどさ)。ま、商売上手ってやつだ。俺に商売は関係ねぇ(決まった)。


 だが、とはいえ、しかし、ただし、かわいこちゃんだけは、場合によっては音楽そのものより存在のほうがはるかに重要な場合があるので、そこのところは仕方がないでしょう。許して下さい。


 では、今週よく聴いていたものを。





 NCCP、正式名はNuova Compagnia di Canto Popolare(民衆歌の新しい一座)。


 イタリアはナポリの楽団である。70年代、ナポリの民謡を発掘・発信するような集団からスタートし、90年代以降は現代的なサウンドを取り入れたオリジナル表現へと移行してきている、と理解している。学生の頃、90年代の初頭だったが、教授から70年代の音源を聞かせていただき衝撃を受けた。タンバリンて、こんなに荒くれて格好いいものだったのか。


 それを機に、以来、CDなど購入したり、継続して愛聴している。以前はyoutubeなどでも映像がほとんど見つからなかったものだが(探し方が悪かったのかも)、最近検索してみたら随分いろいろな映像を見ることができ、合わせて久々にまとめて聴いてみたという訳。


 映像のように、タンバリンを打ち鳴らし、フリクション・ドラムをギッシュギッシュと擦り、マンドラ(大ぶりなマンドリン)をべれべれ奏で、笛をひょろひょろ吹き、喉も破れんばかりの声を張り上げる(あとギターとカスタネット)。


 これこそ夢である。夢のフォーメーションである。金属・皮膜・弦・空気・声というインストゥルメンツの構成要素、叩く・揺さぶる・擦る・弾く・吹く・絞り出すという身体各部位の運動、すべてが野卑に絡み合うアンサンブルである。憧れるなぁ。私はほとんどこういうことをやりたかったのだなぁ。そしてその「ほとんどこういうこと」であるが、それが何人が奏でるどこの音楽だろうと構わなかったし、どういうカテゴリーで呼び馴らわされ流通し売買される音楽であろうと構わなかった。そういう気持ちになる音楽と触れ合った気がしたものだった。

やべー、惚れた



Russian Red


 Wikipediaの英語版の記述によるとスペインの娘さんなのだ。やっぱり娘はセニョリータだね(意味不明)。これはヤバイね。


 2年前の映像らしいので、もしかすると今はグラマラスなラテン女に変貌しているかもしれないと思うと、いつまでもそのままの君でいて欲しいような、今日初めて出会ったばかりなのに勝手な思い込みを抱いたりする。困ったものだ。


 ところで、鉄琴叩いている女性も麗しい。もうどうしようか迷う。ほとほと困ったものだ。


 そのWikipediaの英語版の記述にもあるが、なるほどこの人の雰囲気に通じる感じもする。



 まぁ、この人もヤバイんだけどさ。ハープ弾き語りでその声その歌い方は、本人の意図と無関係に、なんか、変態。まぁ、好きなんだけどさ。そんなところが。


 失礼しました。