若い頃は随分と声が出た覚えがある。普段の声がでかいとか、よく通るとか、よく響くとか、そういう訳ではないのだが、どうも入れ込んで歌うというか、絶唱型というか、そんな体質だったものだ。恥ずかしい。
 仲間と楽団などやっていたが、そんな活動から足を洗い幾年月。とはいえ、気が向いたときに自宅録音など、日陰な活動を続けている。


 この自宅録音に際して厄介なのが、音のでかい楽器の扱いである。普通にロックやってる人なら、アンプをギュインギュイン鳴らしてマイクで拾いたいぜとか、ドラムスの問題などで悩むだろう。防音措置の講じられたお部屋でない限り、おめでとう、それは世間様に丸聴こえです。私の場合もパーカッション類やチャルメラのような楽器を鳴らす際は躊躇する。
 まぁ、スタジオで録音すれば何の問題もないことはよくわかっている。が、急に気が向いたときにやって楽しいのが素人の自宅録音というものなのだ。


 さて、音のでかい楽器と並び、大変に躊躇するのが声である。これは、なんというか、歌詞を歌っていたりもするわけで、しかも近所には、それが顔見知りの犯行だとわかるわけで、世間に聴かれることを想像すると、私はもう気も狂わんばかりになる。私が歌う部屋の直下で近隣の主婦二名がすれ違いざま、私の声を漏れ聴き、目配せしあい、二人してアメリカン・ポーズを取る図など想像すると、私はもう、江戸城の松の廊下で刀を振り回すとか、聖ガンジスにぷかぷかと流されてしまうとか、そんな終局的な思いに駆られる。


 世間にさらすことなく自宅(自室)で歌いたいという点では、人は同じような悩みを抱えているらしく、布団の中(至、窒息死)、人一体が収まる自作ベニア板張り防音箱(部屋占拠&至、窒息死)、左記軽量版・頭部のみすっぽり収まる自作ベニア板防音ヘルメット(至、窒息死)など、たゆまぬ努力の数々は我々アマチュア楽家の深い共感の涙を呼び、現場を目撃してしまった無関係の一般人にナンセンスな笑いを供給してきたものだ。


 というわけで、私の場合、自然とダイナミックレンジの狭い歌唱法を採用してきた。理想としては囁くように歌うとか、細川俊之のように甘く語りかけるとか、そういった松崎しげるホイットニー・ヒューストン一派の対極にある芸を体得したいものだが、やってみると自分のそういう声は大変に気持ちわりい。


 とにかく、言葉を大事にしながら、微細な抑揚や陰影で表現していく感じ。あと、気持ちの問題で、声が面的に拡散していかないよう、一本の糸のように吐き出される感じ。師と仰ぐ歌い手は、ニコ、ルー・リード、ジム・モリソン(呟き時)、トルコの歌姫(姫と呼ぶには凄まじいルックスだが)セゼン・アクス、ハンガリーのマールタ・シェベスチェーンなどといったところだろうか。もちろん、そう歌えるわけがないが。


 だが、自室を離れ、ギター一本身構えて曠野に立ったならば、もう俺の声など誰に聴かれても知ったことか。自分が想像しているよりも案外声が出て、びっくりする。しげる&ホイットニー門下に加わった気になってこれもまたうろたえる。


 結局、どうした歌唱が自分に適しているのか、どうもよくわからないのである。