哀悼


 季節は変わる。


 ぼさっとしていると季節の変わり目を見逃すことがある。変わり目を見逃すとあとで妙な苛立ち=乗り遅れ感を味わったり、もっとさらに痛い目にあったりもする。


 私は人生の季節の変わり目を見逃した感がどっぷりとあって、おかげで生涯真っ当なオトナに成り切れんのだろうな、と、割と堂々と思っている。それは、そういう人生を選んだに過ぎない。


 ことが歴史的な季節の変わり目、事件に及ぶと、好むと好まざるとに関わらず世界市民はそれに翻弄されたりもする。ロシア革命がその後の20世紀の始まりを告げる事件だったとすると、マルタ会談、或いはソ連邦の解体はその終りを告げる事件だったと言えよう。


 その渦中、その後半戦・終盤戦、私も世界の片隅でその歴史に参加(?)していたわけだが、確かに10代の頃には自分が将来、全面的な核戦争によって消えるのだろうかと、漠然と、時にはリアルな感覚として思ったものだった。ひたすら自己の内面に沈潜していくような表現や、ロックの階級闘争的な側面にも共感した、そんな時代があった。


 21世紀はアメリカでの同時多発テロによって始まったと後世の歴史家は評価するのかもしれない。


 一体、2008年の春が訪れた程度で俺は何を書いているのか。いつものことじゃないか。


 *


 春の訪れと裏腹に、上田現がこの世を去った。私は上田現の作品に全て通暁しているわけではないし、彼が在籍したバンド=レピッシュの大ファンであったというわけでもない。が、上田現が書く曲は総じて好きだった。何曲か、べらぼうな曲をも書き残したと思う。


 同時代を生きたアーティストの死は悲しい。これまでも幾度かそうした訃報に接してきた。
「同時代」という括りによって、なにか時代のムードとか、ある種の価値観とか、私達は共有し通じ合っている、などと考えることは幻想かもしれない。ポピュラー音楽はそんな幻想・幻影を商っているのだという見方もできよう。


 しかし、だ。それが醸し出す優しさ、儚さ、一瞬の光景の鮮やかさなどが描くイメージは、ある時代特有のものであったりするとも感じる。


 繰り返す季節の息吹を感じる傍ら、後戻り巻戻し不能な季節、その一つの終焉に接し、ため息をつく。我々はべらぼうな一曲を生み出す才能を一つ失った。