豆煮込



 豆を煮込んだものが好きだ。


 どちらかというと和な煮豆より、さらっと単純に言えば、洋な煮込みが好きである。
 しかし当然のように、世界は私たち&西洋という二極によって成り立っているわけではない。よって印度な煮込みも好きであるし、亜剌比亜な煮込みもよだれが垂れるし、南亜米利加な煮込みにも腹が鳴るのである。


 概して、それらは洗練された料理としての体裁をまとわず、地味で、見てくれもぐちゃぐちゃした感じのものが多い。
 乾いた豆というものは比較的長時間煮なければ固くて食えん。比較的長時間煮ていると、素材というものはぐちゃぐちゃになってくる。鮮やかな色は薄れ、原形をとどめぬ程ぐずぐずになってしまうものもある。しかし、鍋の中で様々な素材の持ち味が混ざり合う様は、煮込みの醍醐味と言えるだろう。乾いた豆をどうにかして食うためには煮込まねばならず、煮込んでいれば自然と滋味あふれる一品となる。


 そのようなことをぶつぶつ呟きながら、この半月くらい、ひよこ豆を何度か煮込んだ(写真参照)。目下、ひよこ豆在庫が結構あるのだ。 


 その見てくれであるが、素朴で良いではないか、と思う。おそらく何千年か前にも世界のどこかで同じようなものを食っていたに違いなかろうと思える。何となく、ごろごろした豆が生命や豊穣のメタファーにすら見えてきて、私は神話世界に誘われる思いに駆られる。


 そのようなことを語り出すと更に歯止めが効かない性分である。まぁ、とにかく、妄想に誘われつつ食った。食ったわけだ。


 私はひよこ豆の煮込みをピラフ的な米の上にかけて食うことが好きだ。西アジアで覚えた。パン好きな俺だが、この場合、米とのハーモニーに軍配を上げる。やってみ。まぁ美味いよ。


 そうして食っていると、豆で腹が膨れる。米がそこに追い打ちをかける。一皿も食えば飽きてくるというか、おかわりはもういいぞ、げふ、というような気分になりがちである(ひどいことを言う人だよ)。


 けれど、好きなのである。何か教訓を見出すとすれば、ぐちゃぐちゃにすることにも論理があり、ぐちゃぐちゃ論理は美を生み出す。そしてそれは私を満腹にさせる。


 そのようなことを歌うように呟きながら、私は食後ゴロっと横になる。


 牛になるぞ。モー。


 ※なんだこの日報?